おわてんねっとのデモにおける「毛筆プラカード」の使用に関する見解


 【終わりにしよう天皇制!「代替わり」反対ネットワーク(おわてんねっと)】では、昨年11月の結成以降、天皇「代替わり」とたたかう幾度かのデモをおこないました。そのデモにおいて、主催者の準備として「毛筆を用いたプラカード」を作成し、印刷して、参加者にデモグッズとして配布してきました。

 この毛筆プラカードの使用にたいし、「左利き差別を内包した毛筆表現を用いることは、差別の容認・助長につながる」などの批判意見が寄せられました。
 わたしたちは天皇制が差別制度であることをこれまで強く批判してきました。そのわたしたちに向けられた差別に加担しているという批判を重く受け止め、また街頭行動を追求するわたしたちにとってプラカードの表現をめぐる問題は極めて重大な問題であるという認識にたち、慎重に学習・議論をつづけてきました。
 ここに、おわてんねっととしての結論をみましたので、以下、発表します。

1.事実経過
 おわてんねっとでは、2018年11月の結成からこれまで計10回の街頭デモ・アピール行動を行ってきました。プラカードの持ち込みはもちろん原則的に自由であり、過去に同種のテーマで作ったものの再利用も行いましたが、主催者として18種類ほどの新作プラカードを作成、印刷、配布してきました。このうちの4枚が毛筆を用いたプラカードであり、参加者数の見込みを勘案しながら、それぞれ10数枚~数十枚程度の印刷を行ってきました。
 最初につくったのは、4月後半から5月1日にかけて天皇「代替わり」期の連続行動にあわせた、「祝わない」と一行で縦書きしたものです。これはおもにプラカードの作成を担当してきたメンバーが自宅付近の神社かどこかで、「新天皇陛下御即位奉祝」あるいは「天皇陛下御在位三〇年奉祝」と毛筆で書かれた「奉祝スローガン」を目にし、また政府広報が「国民こぞって奉祝しましょう」と呼びかける中、この「祝」の字を逆手にとった反天皇表現をしようと思って作成したものでした。
 しかしその後つくった三枚は、とくにそのような問題意識もなく、なんとなく作り続けてきました。また、モノクロ印刷で簡単・安価に量産できることも、毛筆プラカードを作り続けてしまった理由です。
 わたしたちが作った毛筆プラカードの字形は、それがどこまで「成功」しているかはさておき、いわゆる毛筆楷書の「お手本」への忠実さを指向するものでした。作成者は、インターネットを参考に、「トメ、ハネ、ハライ」などの字形を確認しながら書いたこともありました。

2.毛筆・書道のもつ問題性
 「毛筆プラカードは左利き差別を許容・助長している」との指摘をうけ、わたしたちはいくつかの論文も参照しながら、議論を重ねました。その結果として、わたしたちが作ってきた毛筆プラカードには以下のような問題点があるという認識に達しました。
 わたしたちの作ってきた毛筆プラカードは、字体や字形において、いわゆる毛筆書道の「お手本」に極めて忠実なものです。そしてわたしたちが「お手本」とした毛筆書道の体系は、以下のような問題性・差別性・抑圧性をもっています。
まず、毛筆書道の「正しい字形」や「筆順(書き順)」は、あくまで右手で縦書きすることを基準としたものです。左から右へ、と流れる「筆の運び」は、「正しい字形」を求めるうえで、右ききの人にとっては「自然」であっても、左ききの人にとっては書きやすいものではありません。
 1971年に必修化された小中学校の書写教育は、左ききへの配慮を欠いたものであり、左ききを右ききに矯せいするようなことが行われ、今もなお「右手のほうが書きやすいよね」というような教師の「誘導」も伴いながら、「右手書き」が「正しいもの」とされている現実があります。
 義務教育への書写・書道の必修化には、小児科医による「左ききの子どもたちへの人権侵害」という批判や、「左利き友の会」による反対運動、署名運動があったこともはじめて知りました。(なかの;2010)
 また、パソコンが一般に普及するなか、書写・書道教育の必要性が一層「実用」から遠ざかり、より精神性と結びつけられて語られることが増えていることも考える必要があります。字の「きれい」「きたない」は、書き手の人格評価と密接に結びつき、とりわけ実用から離れた書道的な価値観において、「書は人をあらわす」「書で人格を磨く」といったことが平然と語られているのです。

 毛筆書道教育は、戦時中は「戦意発揚スローガン」を子どもたちに書くことを強制しました。戦後一旦は義務教育から外されますが、1951年の学習指導要領で解禁され、1971年に実施された学習指導要領で義務教育での必修となり現在にいたっています。
 すでに硬筆が主流となり、横書きも増えたなかでの戦後の毛筆再必修化は、書道関係者の運動を背景に実現したものです。これら書道関係者の主張は、「主に情操面、精神面からの書の意義を強調…するということは、(書道必修化)賛成派の人々にほぼ共通していることであった」(藤田;2001)とされるとおり、実用をこえた人格育成をめざす道徳的な教育の一環として書写・書道を位置づけるものでした。
 また毛筆再必修化において役割を果たした人物が書いたものを読んでも、戦時中の書道教育を「書風は、穏健中正のうちに時代精神をあらわした雄大剛健なもの。手本の文字は…特に皇国民の錬成に適するもの、心理的、文学的、生活的、行事的なものにした」(藤原・加藤;1976)などということがなんの反省もなく述べられています。
 義務教育での書道必修化に情熱を傾けた書道界の主流派が、国家主義や民族主義、そして侵略戦争への書道の加担に批判意識が希薄であったことも伺えます。

3.おわてんねっとの毛筆プラカードの問題性
 さきの「1.事実経過」に説明したように、最初に採用した「祝わない」という毛筆表現は、天皇即位について「祝意」を強要し、思想および良心の自由を侵そうとするさまざまな圧力に対し、その権威主義的な表現を逆手にとって考えだしたものでした。
 しかし、その後も同様な表現方法を連続して採用したことは、前記のような毛筆書道の問題性や歴史的経緯について十分な考察を行ったものとは到底いえず、結果としてこれまでみたような毛筆表現の権威性を強調し、再生産してしまう役割を果たしてしまった面があったと思います。それは、やはり誤りでした。
 このような毛筆プラカードを使い続けたことに対して、心を痛められた方に申し訳なく思っています。ごめんなさい。

4.社会運動における表現のありかたについて
 一方わたしたちは、デモや集会での表現は、これからも多様で開かれたものであるべきと考えています。表現方法のあり方は、その方法がもつ問題性や歴史的経緯と合わせて、作り手の立場や意識、メッセージの内容や社会全体のなかでの扱われ方なども含んで検討されるべき課題です。与えられた価値観としての「正しさ」や「美しさ」を越えて、みずから模索してつかんでいく様々な表現の可能性を引き続き社会運動のなかで大切にしていきたいと考えています。
 同時に、表現にたいして常に起こりえる今回のような問題提起に対しては、わたしたちはそれを真摯に受けとめ、学習と討論と対話を重ねることによって、運動的に克服していく努力を決して放棄しません。

5.今後の具体的な方針について
 以上のような議論の結果にもとづいて、おわてんねっとでは具体的に以下のことを決めました。

① この声明を、ブログやツイッターで発表します。また、12月7日の「終わりにしよう天皇制!2019大集会・デモ」で印刷して配布します。今後制作する予定の総括パンフに収録します。
② おわてんねっとでは、これまでの毛筆プラカードを制作・使用してきた責任として、今後新作は作りません。またこれまで作ったものもデモには用意しません。
③ 自作の毛筆プラカードをもって12月7日のデモに参加した方がいた場合、この声明を出したことや声明の問題意識を説明します。しかし、その不使用を求めることまではしません。

 この声明が多くのみなさんに読まれ、社会運動に毛筆プラカードを用いることの問題性が広く議論されるきっかけになれば幸いです。

2019年12月1日 
終わりにしよう天皇制!「代替わり」反対ネットワーク

 ※この声明を作成するにあたって参照した論文

  • 『書字教育と書写教育』なかのまき;2010;『社会言語学』10号収録論文
  • 『占領期における書教育の存廃論議について』藤田祐介;2001;『筑波大教育学研究論集』25号収録論文
  • 『書写・書道教育原理』藤原宏・加藤達成;1976;講談社
  • 『行動する社会言語学』第10章「左手書字をめぐる問題」なかのまき;2017;三元社
  • 『識字の社会言語学』第3章「てがき文字へのまなざし」あべやすし;2010;生活書院

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